フェチ



きっと僕だけじゃないと思う。
男なら街を歩いているとき無意識に女性の後ろ姿に目が行ってしまうものだ。
僕なんて気に入った後ろ姿があれば、すぐにその後ろを歩いてしまうくらいだ。
おっさんの後ろを歩くより女性の後ろのほうがずっといいに決まってる。
尾行して住まいを突き止めるわけではない。
ただひと時だけでも美しい女性の後ろ姿に癒されたいだけなのだ。
後ろを歩いていると、無意識のうちに女性のボディラインをチェックしてしまう。
時にはスカートから伸びる脚に食らいつきたくなる衝動すら湧き上がってくる。
そして頭の中で妄想が始まる。
どんな顔をしているのだろう?
俺好みの美人なら声をかけようか?
少し足を速めて、追い越す。
そしてさりげなく後ろを振り返って、その女性の顔を確認する。
その結果はいつも同じだ。
毎回がっかりする。
女性には何の罪もないのに舌打ちをしてしまう男性諸氏も少なくないことだろう。
男とは誠に身勝手な生き物だと思う。


僕は自ら認める女性の後ろ姿フェチだ。
キュッと締まったウエスト。
丸みをおびたヒップライン。
歩くと左右に揺れるスカート。
スカートはタイトスカートよりも女性らしいフレアスカートが好きだ。
美しく揺れるスカートは最高だ。
ミニもいいが、膝がギリギリ見えるくらいのほうが僕の好みだった。
そして何よりも大切なことは健康的な脚だ。
やせ細った棒のような脚はごめんだ。
健康的な太ももとふくらはぎ。
そしてそれを支えるハイヒール。
その脚が美しく交叉しながら歩を進めていく。
これにハイヒールのコツッコツッという音が加われば何も言うことはない。
髪はできれば肩甲骨にかかるほどの長さがあったほうがいい。
それだけで僕の股間ははち切れんばかりになる。


僕は自分のルールとして決して女性の顔は見ないことにしている。
この理由は最初に書いた通り、残念な気持ちになることが経験的に分かっているからだ。
美人であっても僕の妄想通りでないとがっかりしてしまうのだ。
僕の妄想通りの女性なんておそらくこの世の中にはいない。
妄想通りの女性というのは好きなタイプとは微妙に違う点が厄介な点だ。
妄想の彼女はまさに僕の妄想の中でだけ生きているのだ。
後ろ姿を見ていると僕の妄想は全開になる。
妄想の中で彼女は全裸になる。
そして彼女は僕のイチモツを咥える。
僕は彼女をバックから挿入する。
彼女の白いヒップは僕の性欲をさらに掻き立てる。
僕は童貞を彼女に捧げるのだ。

毎日毎日一日に何人に対しても、こんな妄想をしているのだ。
おかげでまだ生身の女を抱いたことはない。
すでに成人式を終えているが、童貞なのだ。

あるとき変な考えがよぎった。
そして僕はその考えにとらわれてしまった。
日に日にその考えは僕の中で増殖していくようだった。

自分でスカートを穿けば自分の好きなようにアレンジできる。
そうすると、僕にとって理想的な後ろ姿になるんじゃないか!
冷静に考えれば馬鹿な考えだと思う。
しかしそのときはそんな考えが頭の中を支配していった。


僕はスーパーマーケットの婦人服売り場で立ち尽くしていた。
目の前にはカラフルなスカートが並べられている。
手に取りたい。
手に取って穿いてみたい。
しかし周りの目が気になり手を出せずにいた。
どれくらいの間迷っていただろう。
ふと店員がジロジロと見ていることに気がついた。
僕は適当にスカートをひとつ取り、急いでレジに行った。
「お買い物袋はご利用ですか?」
そんなことはどうでもいいだろう。
普段ならあまり気にしないそんな質問も鬱陶しく感じた。
「はい…」
僕は店員と視線を合わせず返事した。
そしてお金を支払い、逃げるようにしてその店を去った。

僕は自分の部屋に戻ると、急いでドアを閉めた。
そして、後ろ手で鍵をかけた。
(やった、ついに買った)
惜しむらくはじっくりとデザインを選べなかったことだ。
それにしても初めて"自分"のスカートを手に入れた喜びは大きかった。
僕はドキドキしながら、袋からスカートを取り出した。

チュール生地が2枚に重なったスカートだ。
とてもフェミニンな感じが気に入った。
でも、少し丈が短いような気がする。
さらに、白を選んだつもりだったのだが、グレイだった。
清楚な白がよかったが、仕方がない。
それにグレイも悪くない。
僕は自分に言い聞かせるようにそう思おうとした。

僕はズボンを穿いたまま、スカートを下半身にあててみた。
膝上10センチ程度はありそうだ。
やはり短すぎた。
でもミニも嫌いではない。
僕は早速穿いてみることにした。

僕は部屋の鍵がかかっていることをもう一度確かめた。
何かとてつもない悪事をしようとしているようだな。
そんなことを考えながら、ズボンを脱いだ。
すでに僕のペニスは興奮で大きくなっていた。
スカートに脚を通した。
ウエストの部分がゴムになっているのは初心者の僕には有り難かった。
スカートをウエストのところまであげた。
股間の部分が妙に持ち上がってしまう。
落ち着かせようとすればするほど頭の中を妄想が占めた。
仕方がない。
あそこの部分は見ないようにしよう。
そう思い、鏡に映った下半身全体を見た。
まず思ったのが、脚が汚いということだ。
僕はそれほどすね毛が濃いほうではない。
それでも女性の脚に比べるとすね毛が目立つ。
すね毛は剃ればいい。
それよりも気になったのは、明らかに男の脚だということだ。
あまり運動するほうではないが、筋肉のつき方が見るからに男の脚なのだ。
僕が理想とする脚では決してない。

僕がスカートを穿いて、いかなる努力をしても全然似合わないのかもしれない。
もっと魅力的になると思ったのに。
そんなことを考えていると、勃起が治まってきた。
スカートの部分は余計な突起がなくなった。
そうなると少しは女性に見えるような気がした。
明らかに男の脚だと思ったのは、勃起のせいかもしれない。
スカートの前の膨らみに目が行ってしまい、それが勃起を連想させ男を感じさせるのだ。
もしかしたら、脚も少しくらいは改善できるのかもしれない。
僕は少し元気が出てきた。

僕はズボンに穿きかえて、コンビニに行った。
コンビニに行ったのはパンストを買うためだ。
しかし、パンストだけを買う勇気はない。
僕は弁当や茶や雑誌を買い、その下にパンストを2枚しのばせた。
ベージュと黒を1枚ずつ。
お金を支払うときはかなり緊張した。
緊張するからと言って買わないということは考えなかった。
何だか少しずつ自分がおかしな方向に向かっているような気がする。
しかしもはや僕は自分の欲求を抑えることができなくなっていた。
そもそも僕ははまり出すとトコトンはまってしまう傾向があるのだ。

家に戻ると、僕は急いでベージュのパンストを穿こうとした。
しかしうまく穿けない。
無理に穿こうとして伝線を入れてしまった。
どうすればうまく穿けるのだろう?
僕は逸る心を抑えてインターネットで検索した。
パンストを足首のところまでたくし上げて穿くとうまく穿けるということだ。
女性は毎日のようにこんな面倒な思いをしてパンストを穿いているのだろうか?
そう思うと、女性に対する畏怖の念を覚えずにいられなかった。
僕は伝線の入ったベージュのパンストで穿き方を練習した。
パンストを穿くと、少しは綺麗な脚になったような気がした。
少しすね毛がのぞくが、まあ許容範囲といったところだろう。
見た目もよかったが、僕はパンストの肌触りが気に入った。
男性の下着では感じたことのない肌触りだ。
僕は再びスカートを穿き、鏡で見てみた。
何となく違和感があるが、それは慣れの問題だろう。

その日から外に出るときは必ずストッキングを穿いた。
パンストにすると何かと不便なことがある。
主に用を足すときだ。
だから、膝から下のストッキングを愛用した。
パンストの穿き方に慣れるということも理由のひとつだ。
しかし何より肌触りが気に入ったことが穿き続けた大きな理由だ。
その肌触りで女性のものを常に身につけていると感じることができる。
そのことが大きな喜びだったのだ。

そして僕は家にいる間はずっとスカートを穿いた。
そうすることで自然と女性っぽい仕草が身についていくような気がしたからだ。
まさかミニスカートを穿いて、胡座なんてするわけにはいかない。
自然と股を閉じ、脚を流して座るようなことができるようになった。
歩く時も必要以上に大股になることもなかった。

次第に同じスカートばかりだとつまらなくなっていった。
スーパーに買いに行きたかったが、やはりお金を払うときがネックだった。
僕はインターネット通販を利用することにした。
そして一度ネット通販を使うと歯止めが利かなくなった。
クレジット支払いにして、欲しいものを我慢もせず買うようになってしまった。
だからできるだけネットを利用しないようにしていたのに………。

今ではスカートだけで10着ある。
見ているときは膝が見える程度が好みだったが、自分で穿くのはミニスカートが好みだ。
ミディやロングも1着ずつあるが、あとは全てミニスカートだった。
マイクロミニと言われるほどの短いものも気に入っていた。
最初はイマイチだと思った脚だったが、意外と綺麗な脚であることに気づいたのだ。

スカートに加えて、ハイヒールを3足買ってしまった。
ハイヒールを買ったのは、ハイヒールを履いたほうが圧倒的に脚が綺麗に見えるからだ。
ハイヒールを履き出したころは、ふくらはぎが筋肉痛になった。
それでも我慢して履いていると、慣れのせいかコツを掴んだのか筋肉痛から解放された。
部屋の中ではスカートとハイヒールで生活していた。
その効果は程なくして現れた。
僕が歩くとスカートが美しく揺れるのだ。
これはスマホで動画を撮って確認したのだ。
少しお尻の大きさが足りないと思うが、腰から下だけだと女性に見えるはずだ。
自分で録った動画で、自分の下半身を見ながら、自らを慰めることもあった。


「おい、直彦、入るぞ」
そんな声がしたかと思うと、いきなりドアが開いた。
入ってきたのは西野雅臣だった。
雅臣は同じ学科で、近くに住む友達だった。
時々遊びに来る仲だったのだ。
そんな雅臣が驚いた顔で玄関のところで立ち尽くしていた。
「お前、何て恰好してるんだ?」
そう呟いた。
僕はいつものようにミニスカートとハイヒールを身につけていた。
そして、昼食のインスタントラーメンを作っているところだったのだ。
「いや、これは…」
どう説明しようかと考えを巡らせた。
結局下手な言い訳をしても仕方ない。
そう思い、素直に自分の趣味について話した。
「ふーん、なるほどね。そんなに女の後ろ姿が好きなんだ。それにしても女の後ろ姿が好きってのは分からなくもないが、だからと言って自分でやろうとは思わないだろう、普通は。第一、自分で女装しても、後ろ姿を見れないんじゃないか?」
「だからそれは動画を録ってさ…」
「そこまで手間かけるか?」
「だから自分だったら好きにアレンジできるし…」
「それにしても、いくら下半身が好きって言っても上半身も女じゃないとイマイチだろう。髪の毛だってロングのほうが好きなんだろ?」
「そこまでやると、何となく踏み込んではいけない領域に入っていきそうで…」
「何言ってんだ。毒を食らわば皿まで、だろ?やるなら徹底的にやろうぜ」
「『やろうぜ』って言っても、やるにはお金が必要なんだ。そんな金はないからなあ」
「俺にちょっと当てがあるんだ。1週間以内に持ってきてやるよ」
「当てって何だよ」
「それはお楽しみってことで。また来るよ」
そう言って雅臣は出て行った。
いったい何の用で来たのだろう?
それにしてもドアの鍵をかけ忘れるとは…。
うっかりしていた。
雅臣の奴が言い触らしたりしないことを祈るのみだ。

雅臣が来たのはそれから5日後だった。
両手にダンボールを抱えてやってきたのだ。
入っていたのは女性の服や下着だった。
さらに女性の乳房の形をした人口乳房もあった。
「どうしたんだ、これ?」
「知り合いがこの手の店をやってるからさ、在庫から少し分けてもらってきた」
「お前にそんな知り合いがいるなんて知らなかった」
「友達にどんなやつがいるかなんて普通は言わんだろう。とにかくつけてみろよ」
「今ここでか?」
「当たり前だろ。そのために持ってきたんだから。そんな中途半端な恰好じゃなくて、完全に女になってみろよ」
そのとき僕はいつものようにスカートを穿いていたのだ。
もちろんスカートだけだ。
スカート以外はいつもの男の服を着ていたのだった。
僕にとっては初めての女装だ。
そんな状況を前に僕は興奮していた。

「それじゃ向こうで着て来るから。覗くなよ」
「男の着替えるとこなんて誰が覗くかよ」
雅臣の声を背中で聞きながら、僕は女装道具の入ったダンボールを持って隣の部屋に移動した。
僕は一旦全部の服を脱いだ。
そしてショーツを手に取った。
色はピンクで、前の部分に小さなリボンがついていた。
横の部分は2センチくらいしかなかった。
(こんなの、穿けるかな?)
ショーツを手に取ったせいか僕のペニスは興奮でギンギンに硬くなっていたのだ。

思い切って脚を通した。
するとさらにペニスの硬さが増したようだ。
当然のようにペニスはショーツに収まるわけもなく、ほとんどがはみ出ていた。
(どうしよう?無理してショーツを穿く必要もないか)
僕は下着まで女性の物にする必要もないし、穿いていたブリーフを穿き直そうとした。

そのときに少し大きな下着が目に入った。
横の部分は20センチ以上あった。
(こっちだったら隠せるかな)
色が濃い紫で、あまり可愛くなかったが、これだと大丈夫なような気がした。
穿いていたショーツを脱いで、その下着を穿いた。
腰の辺りが締めつけられるような感じで、穿くのに少し苦労した。
おかげで大きくなったペニスも目立たなくなった。
(もしかしたらこれが女装用の下着なのかな)
後になって知ったのだが、それはガードルというものだった。
僕はそのときはまだガードルの存在を知らなかったのだ。

次にゴムのようなものでできた乳房を取り出した。
(軟らかいな。本物のおっぱいもこれくらいなのかな?)
僕はまだ女性の胸に触れたことがなかったのだ。
僕はしばらくその乳房を揉んでいた。

「おーい、直彦。まだか?」
「ちょっと待ってくれよ。慣れないから時間がかかるんだよ」
「それもそうか。まあちょっと急いでくれよ」
どうして急ぐ必要があるんだろう?
用事でもあるのかな?

僕は乳房を落とさないようにブラジャーのストラップに両腕を通した。
そして悪戦苦闘の末、後ろ手でブラジャーのフォックを留めた。
ブラジャーはそれほど苦しくなかった。
それでも初めての感触に興奮していた。

小さな襟のついたボーダーシャツを着て、穿いていた小さな花柄のミニフレアスカートを穿いた。
今いる部屋には鏡がないから仕上がりが分からない。

「着たぞ。どうだ、変か?」
僕は恐るおそる雅臣の待っている部屋に戻った。
そこには雅臣だけじゃなく、もう一人別の人物がいた。
しかも何と女性だ。
僕は慌てて着替えた部屋に戻った。

「こら、直彦。隠れるな。この女性はお前に化粧してもらうために来てもらったんだ」
「化粧?」
僕は恐るおそる顔を出した。
「せっかく女の服を来たのに、化粧しない手はないだろ?」
「そりゃまあそうだけど…」
僕らのやりとりが落ち着いたと見るや、その女性が手招きした。
「それじゃここに座ってくれる?」
僕は覚悟を決めて女性の前に座った。
「あなた、化粧は初めて?」
「もちろんです」
「すごく綺麗な肌してるわ。これだと結構化粧乗りが良さそうね」
そんなことを言いながら、その女性は僕の顔の上にいろんなものを塗りたくった。
すごい匂いだ。
女臭いっていうと失礼なんだろうか。
でもその匂いのせいで僕の気持ちも女性に近づくような気さえした。
「髪型はロングの方がいいでしょ?初めての女装の男の人には大体ロングが人気だから」
頭の上にウィッグを被せられた。
「はい、出来上がり。どう?」
女性が僕に手鏡を渡してくれた。
そこに映っていたのはひとりの女性だった。
「すごい………」
思わず漏らした言葉だった。
僕は鏡の中に見入っていた。
「気に入ってもらえたようね。それじゃ私は帰るわね」
「恵子さん、ありがとうございました。この御礼はまた」
「西野さんはいつもそれだから。期待しないで待ってるわね」
恵子と呼ばれた女性は化粧道具を片付けてサッサと出て行った。

僕は全身を見るために、少し大きな鏡の前に立った。
全身を映しても女性に見えた。
興奮するより、嬉しさが勝っていた。
僕でもちゃんとすればここまで綺麗になれるんだ。
それが分かったことがすごく嬉しかった。
これだと自分にとって一番魅力的な女性の姿を実現できるかもしれない。
そんなことを考えながら、自分の姿に酔っていた。

雅臣が僕の背後に立った。
「予想通り綺麗になっただろ?」
そう言って雅臣が僕の肩に手を置いた。
鏡には男に肩を抱かれた可愛い女性が映っていた。
彼の身長は180センチ近くある。
僕は162センチしかないから彼よりずっと低い。
そんな構図が僕を可愛い女性に見せてくれるようだ。
わたしは女の子なんだ。
僕は無意識にそう考えていた。
自分の一人称が変化していることにはまったく気づいていなかった。

「それにしてもウエストニッパーはつけなかったのか?」
ウエストニッパーって何のことだろう?
僕にはそれが何のことか分からなかった。
表情で分からないことを伝えた。
「分からないのか?ちょっと待ってろよ」
雅臣が隣の部屋からダンボールに残っていたある物を取ってきた。
「これがウエストニッパーだ。これをつければウエストのラインが綺麗になるんだ」
ウエストライン?
そんなものは最初から諦めていた。
男と女のボディラインなんて絶対に違うもんなんだ。
男が女のように括れを作るなんて並大抵の努力じゃ無理なんだと。
「ちょっとつけてみようぜ。間違いなくもっと綺麗になるから。トップスとスカートを脱いでみろよ」
僕は「もっと綺麗になる」という言葉が気になった。
だからウィッグが外れないように注意しながらトップスを脱いだ。
そしてスカートも脱ぎ、下着だけになった。
そのときに急に雅臣の視線が気になった。
雅臣に下着姿を見られてる。
そう思うとなぜか恥ずかしくなった。
僕は右手で胸を隠し、身体を捻るようにしてしまった。
「何恥ずかしがってんだ。男どうしだろ?」
そう言われても恥ずかしいものはどうしようもなかった。
「だって…」
「そんなことはどうでもいいから、こっちに来い。これをつけてやるから」
あいつには乙女の恥じらいが理解できないらしい。
仕方なく僕はウエストニッパーを持った雅臣に近づいた。

雅臣がウエストニッパーをつけてくれた。
かなり思い切り絞られた。
おかげでかなり苦しかった。
しかしそんな苦しさよりも嬉しいことがあった。
確実にウエストに括れができていたのだ。
僕は持っていたスカートで唯一穿けなかったスカートを穿いてみた。
タイトなミニスカートだ。
このスカートはウエスト部分が細すぎて全然穿けなかったのだ。
他のスカートはゴムの部分があったのだが、このスカートは全然伸縮の部分がなかった。
実はこのスカートは誤って買ってしまったものだった。
タイトスカートなんて好みじゃないし、ウエスト60センチなんて穿けるわけないのだ。
捨てるのももったいなかったので、着ることもできないのに持っていたのだった。
一度頑張って穿こうとしたが、どんなに抑えつけても前の膨らみが気になったことも一因だった。
僕は穿けなかったそのスカートを穿いてみた。
その結果、何とフォックを余裕で留めることができたのだ。
しかも前の膨らみはまったく気にならない。
鏡で見ると確かにウエストの括れがあるように見えた。
僕は嬉しくなって鏡の前でポーズを取った。

「これだけ綺麗になったんだ。外に出てみないか?」
雅臣がそんなふうに誘ってきた。
僕は驚いて彼の顔を見た。
「いくら何でも外出は無理だって」
少し間をおいて僕はそう言った。
あまりにも驚きすぎてすぐに言葉が出てこなかったのだ。
「しかし歩き方とか完璧女なんだろ?だったら誰も男だなんて思わないって」
「それにしても無理だって。第一、声を出したらバレるだろうが」
「それもそうだけど、もったいないだろう。それだけ綺麗なのに」
「綺麗」と言われて嬉しかった。
そのせいか少しその気になった。
確かに自分でも綺麗になったと思うし、他人から言われるとマジで嬉しい。

「なあ、本当に綺麗になったと思うか?」
僕は確認せずにはいられなかった。
「ああ、絶対美人だって。その辺の女なんか目じゃないって」
そこまで言われたら仕方がない。
「そんなに言うんなら外出してもいいけど、条件言っていいか?」
「何だ?できることだったらいいぜ」
「僕のそばにずっと一緒にいてくれる?」
「ああ、もちろんだ。これだけ綺麗な女性がツレだと思われるんだからな」
雅臣は満面の笑みを返してきた。
僕のほうは渋々承諾したように言ったが、気持ちは外出に向かっていた。
僕の中に多くの人に見られたいという欲求が出てきたのだ。


外の空気は部屋の中とは全くの別物だった。
下着に直接空気が当たる感じがするのだ。
まるで下着丸出しで歩いているような錯覚すらしていた。
スカートって何て頼りないんだろう。
僕はそう思いながら緊張していた。

「やっぱり帰ろうぜ」
僕は小声で雅臣に言った。
「何だよ、せっかく出てきたのに勿体ないだろ」
「でも恥ずかしいし」
「大丈夫だって。お前は綺麗だ。自信持っていいぞ」
「でももしバレたら、お前も嫌だろ?」
「心配するなって。そんなに綺麗なんだから、バレるわけないって」
「そうは言ってもな…」
「それよりどこかで飯でも食べないか?腹減ったし」
「いきなり外食はちょっと…」
迷う僕の肩を抱いて、雅臣は目の前の洋食屋に入った。

「ご注文はお決まりでしょうか?」
店に入るとウエイトレスが水を持って注文を聞きに来た。
「生姜焼き定食とレディースセット」
雅臣は僕に聞くことなく注文した。
「生姜焼き定食とレディースセットですね」
ウエイトレスは形だけの確認をして、マスターらしき男に注文を伝えた。
「何だよ、レディースセットって?」
「知らないよ。何か食いたいもん、あったのか?」
「いや別に」
「ならいいだろ。お前は話せないと思ったから、決めてやったんだから」
「お前、この店、よく来るのか?」
「まあな、女と来たのは初めてだけどな」
雅臣にとって僕は完全に女性と認識されているようだ。

出て来たのはグラタンとスープとサラダだった。
それにオレンジジュースがついていた。
量が少し少なめだったが、まあまあ美味しかった。
代金は雅臣が払ってくれた。

「あとで払うからな」
「いいって。デートでは男が払ったほうが恰好いいだろ」
こいつにとって僕は完全に女性のようだ。
しかも完全にデートモードに入っている。
「僕は男だぞ」
「実は俺、男の娘って結構好きなんだ。本物の女よりも好きかもしれない」
驚いた。
こいつってそういう趣味があったんだ。
ちょっと警戒したほうがいいかもしれないな。
嬉しそうに歩いている雅臣の横顔を見ながら、僕は警戒心を強めていた。

ふと気がつくと、前の方から知り合いの女性が近づいてきていた。
棚瀬瑞希だ。
瑞希は雅臣と同じ高校らしく、大学で雅臣と会えば二人で話をする仲だった。
そうして僕も時々話すようになったのだ。
時には雅臣抜きでも話したりしていたので、僕とは充分よく知った仲だったのだ。
そんな瑞希の目から見れば僕の女装なんて簡単にバレてしまうのでは…。
こんな街中で、大声でばらされたら、恥ずかしさで死んでしまうかもしれない。
「棚瀬だ。逃げようぜ」
「おかしいだろ、急に逃げたりしたら」
そんなことを言って、そのまま歩いていった。
瑞希との距離は確実に短くなっていく。
この距離になると、もう逃げるに逃げられない。

「あら、西野くん」
ついに瑞希に声をかけられた。
瑞希の言葉は雅臣に向かっているが、視線は完全に僕を捉えていた。
「もしかしてデート中なの?」
「あ、ああ」
雅臣が返事にもならない返事をした。
「西野くんにそんな彼女がいたなんて知らなかったわ。隅に置けないわね。紹介してよ」
雅臣が僕の顔をジッと見ている。
何と言おうかと考えているようだ。
「あ、彼女は塚本…、あ、えっと、直美さん。で、こっちは大学の友達の棚瀬瑞希さんだ」
「えっ、塚本ってもしかして塚本くんのお姉さんか妹さんなの?」
バカな奴。
もう少しバレない名前を言えばいいのに…。
しかし、時すでに遅し、だ。

「あ、まあ、そういうとこだ」
「そっか。友達の姉妹を彼女にしたのね」
「まあな」
瑞希が僕の顔を見ている。
僕は視線を外した。
「よろしくね」
瑞希が僕に言ってきたので、僕はピョコンと頭を下げた。
声を出せばばれてしまうから仕方がない。
「彼女、シャイなんだ」
慌てて雅臣がフォローした。
いくら何でも明らかに不自然な行動だ。
「ふーん…」
瑞希は怪しんでいるように感じた。
「デートの邪魔してゴメンね。それじゃまた大学でね」
そう言って瑞希が去って行った。

「ふー、どうやらばれなかったみたいだな」
「そんなことないって。絶対に怪しんでるって」
「大丈夫だって。俺の返事は完璧だったし」
こいつは自分の不自然さに気がついてないようだ。
能天気な奴だ。

「これ以上、知り合いに会うのはこりごりだ。帰るぞ」
僕が小声でそう言った。
「えぇ!もうちょっとどこかに行こうぜ」
「無理言うな。帰る」
僕は雅臣を置いて家に向かった。
「ちょっと待てよ。待てったら」
雅臣が後から追いかけて来た。
後ろから雅臣が抗議していたが、無視して家に向かった。

家に着き、すぐにドアを閉めた。
「ふぅー、疲れたぁー」
ようやく張り詰めていた緊張から解放された。
「なあ落ち着いたらもう一回外に出ようぜ」
「もう二度と嫌だ」
「そんなこと言うなよ。せっかくそれだけ美人なのに…」
「これからは家だけで楽しむことにする」
「えぇぇ!そんな…。もったいない…」
「もったいなくてもいい。僕はもう外になんか行かない」
「そんなぁ…」
雅臣がブツブツと文句を言ってる。
僕はそれを完全に無視した。

「まっ、いいか。無理強いするのも悪いもんな。それじゃ、持って来たものはお前にやるよ。好きに使っていいから」
そんなことを言って雅臣は出て行った。
なんだかんだ言っても、雅臣はいい奴なんだ。

僕は雅臣が出て行った後も女装のままで過ごした。
今の自分の姿には満足していたのだ。
こんなに可愛い女の子が彼女だったらいいのに。
心底そう思う。
「直彦くん、大好きよ」
僕は鏡に向かって一人芝居を始めた。
「私が直彦くんのこと慰めてあげる」
そうしてスカートの下からマニキュアが塗られた手でペニスを取り出した。
自分の手なのに、何となく他人の手のように見える。
僕は興奮した。
それほど弄ぶことなく、射精した。
射精した途端、空しさが湧き上がった。
もう女装はやめよう。
そう思った。

次の日は大学の授業に出た。
雅臣がいたら女装道具を返すよう話をするつもりだった。
しかしこういう日に限って雅臣は授業に出てないようだった。
その日の授業が終わって、大学内をウロウロしていると、瑞希と見かけた。
彼女の顔を見た途端、逃げようと思った。
そうした方がいいと直感が告げていた。
しかし、そんな不自然なことをすると、怪しまれる。
どうしよう…。
そう迷っているうちに、瑞希が僕を見つけた。
「あっ、塚本くん」
そう言いながら、近寄って来た。
「よかった、会えて。あちこち捜してたのよ」
「何か用でもあるのか?」
すると瑞希が僕の耳元で囁いた。
「塚本くんにあんな趣味があったなんて知らなかったわ」
やっぱりバレてた!
しかし証拠があるわけではないはずだ。
しらを切れば何とか言い逃れることができるかもしれない。
「何の話だよ?」
「あら、もしかしてとぼける気じゃないでしょうね?」
「とぼけるも何も『あんな趣味』って言われても何のことか分かんないよ」
「それじゃ、これは?」
瑞希が出してきたのはスマホだった。
スマホのカメラに昨日の僕と雅臣が写っていた。
当然僕は女装していた。
瑞希はすぐに離れて行ったと思っていたのにこんなものを撮られていたとは。
写真の最初は僕と雅臣が言い合っていた場面だった。
写真はそれから10枚程度撮られていた。
最後の写真は僕の部屋に入って行くところだった。

「この彼女って塚本くんだよね?」
「い…いや、妹だよ」
僕は昨日の雅臣の話に乗ることにした。
「妹さん?以前自分がひとりっ子だって話したの覚えてないの?」
「えっ?そんな話、したっけ?」
「覚えてないの?」
「あ…うん、覚えてない。そっか、そんな話してしまってたんだ。それじゃ昨日雅臣が『妹』と言った時点で、雅臣が嘘ついてるってことがバレてたのか」
瑞希がおかしそうに僕の顔をジッと見た。
そして抑えきれなくなったように急に笑い出した。

「ふふふ、嘘よ、嘘」
「えっ?」
僕には意味が分からなかった。
「だから嘘だって言ってるでしょ。私は塚本くんに兄弟がいるかどうかなんて聞いたことないし、知らないわ」
「だって今…」
そこでハメられたことに気づいた。
「もしかして、お前、ハメたのか?」
「そういうことよ」
「それにしてもどうして分かったんだ?結構完璧に化けてただろ?仕草だってそんなに不自然じゃなかったし」
「そうね。確かに見た目は完璧だと思うんだけど、強いて言えば、女のカンってとこかな」
「女のカン?何だよ、それ?」
「女のカンは女のカンよ。男の嘘はだいたい分かっちゃうものなの」
「そうなのか?それじゃいくら完璧に化けても、バレても仕方ないかもな」
「そんなことより、塚本くんに頼みたいことがあるのよ。今度の日曜、私の部屋に来て。来てくれたら、塚本くんに女装趣味があるなんて誰にも言わないから」
「何だよ、それ?脅しか?」
「そんなんじゃないけど、ちょっとお願いしたいことがあって。ねっ、お願い!」
「お願いしたいことってのはどういうことなんだよ?」
「それは日曜に来てくれたら分かるわ。それじゃ頼んだからね」
瑞希はそう言って離れて行った。
頼みたいことって何だろう?
僕の女装と関係のあることなのだろうか?
何となく嫌な予感がした。

僕は女装して瑞希の部屋に向かっていた。
事前にメールでそう頼まれていたからだ。
瑞希からの頼みだから仕方がない。
一旦は女装はやめようと決心した。
でもすぐにまた女装している。
確かに今女装しているのは瑞希のためだ。
瑞希が頼むから仕方なく女装している。
そんな言い訳をしながら、僕は女装したのだ。
でも自分が女の子の姿になっていくことは何よりも嬉しかった。
僕は雅臣のせいで女装することから逃れられなくなったのかもしれない。
単に脚が綺麗に見えるようになりたかっただけなのに…。
どんどん深みにはまっていくような気がする………。

瑞希のマンションは女性限定のマンションだった。
男の姿では入ることすらできなかったのかもしれない。
だから女装させたのか。
そんなことを考えながら、瑞希の部屋番号を押した。
「入ってきて」
すぐに瑞希の声が聞こえてきた。
そして鍵が開く音がした。
僕は扉を開け、瑞希の部屋に向かった。
幸いにも途中マンションの住人に会うことはなかった。
仮に誰に会ったとしても、男だと見抜かれるとは思ってなかったが、このタイミングで余計な神経は使いたくなかった。

瑞希の部屋までやってきた僕はインターホンを鳴らした。
「鍵はかけてないから、入ってきて」
部屋の中から瑞希の声がした。
僕はゆっくりドアを開けて、部屋に入った。
そこには瑞希らしき女性が立っていた。
「らしき」というのは、最初瑞希だと認識できなかったからだ。
瑞希の部屋だから瑞希だと思っただけだ。
さらに言うなら、瑞希という人間ではなく人形のようにすら思えたくらいだった。
まるで等身大のフランス人形のようだった。

「何だよ、その恰好…」
僕はその瑞希らしき女性に声をかけた。
「私ってコスプレが趣味なの」
瑞希の声だった。
やはりその女性は瑞希ということだ。
他人には分からない趣味趣向があるもんだ。
「コスプレ?」
「うん、そうよ。今までは一人で行ってたんだけど、おかげで仲間ができたわ」
「僕にはそんな趣味は…」
「塚本くんが断れると思ってんの?」
瑞希が頼みたいというのは、このことだったのか。
「…脅すのかよ?」
「そんな人聞きの悪いこと言わないでよ。ちょっとつき合ってくれればいいだけだから」
瑞希は僕をゴスロリのコスプレ仲間に引き入れようとしているのだ。
「だったら、どうして女装なんかさせたんだよ」
「だって女の子になったほうがコスプレしやすいでしょ?」
理解できない理屈だ。
僕が文句を言える立場でないことは百も承知している。
「僕は普通の女の子の恰好がしたいだけで、そんなのはちょっと…」
申し訳程度の拒絶をした。
「とにかくまずは一回つき合ってよ。意外と楽しいと思うよ」
瑞希には僕の声は届かないみたいだ。
「分かったよ」
結局は瑞希が用意した衣装を着ることになった。
無理やり着せられたように装ったが、実は少しばかり興味があった。
こんな恰好をしたらどんな感じになるのだろう。
そんな興味に勝てなかった。

出来上がりは想像以上だった。
黙っていると人形のようだと思った。
しかし瑞希とは少し違う可愛さがある。
言葉にはできないが、瑞希には勝ったと感じていた。
この訳の分からないコスプレというものには底知れない魅力がある。
女装とは別次元の快感があるようだ。
僕は性的にも興奮していた。

「それじゃ行くわよ」
「えっ!この恰好で?」
「コミュがあるから、こんな恰好したんじゃない。当たり前でしょ」
僕は瑞希に引っ張られるように、外に出た。

会場に着くまでの人々の視線はつらかった。
何してんだ、こいつら?
そんな蔑んだ視線が僕を責めた。

やがて、これだけ化けていると僕だと分かるはずがない。
そんな開き直りのような気持ちになることができた。
そうなると、少しずつ堂々と振る舞うことができるようになっていた。

やがてコスプレの会場に着くと、男でも女性キャラクタになっている奴らがいた。
奴らは自分が男であることを隠さない。
むしろそういうシチュエーションを楽しんでいるように思えた。
そんな中にいると、僕も普通に振る舞えることができた。
あえて女性らしい仕草なんかしなくても、皆から可愛いと持ち上げられた。
すごく居心地が良かった。
その会場の中で、僕は充分楽しむことができた。
「ねっ、楽しいでしょ?また来ようね」
そんな瑞希の誘いを僕は断ることができなかった。

コスプレが好きと言っても、瑞希は毎週やっているわけではない。
コスプレのイベントがあるときだけだ。
瑞希に誘われるのはそういうイベントのあるときだった。
最初の体験で充分に楽しいことが分かっていたし、僕は喜んで参加した。
時には瑞希より積極的だったかもしれない。
雅臣とは疎遠になり、瑞希との時間が多くなっていた。
コスプレは基本的にはゴスロリだったが、時にはセーラームーンとか女性キャラクターのコスプレもした。
自分と全く違うキャラクターを演じることが楽しかったのだ。

瑞希と一緒にいないときも僕はコスプレのことばかり考えていた。
コスプレに比べると普通の女装はそれほど大きな刺激はなかった。
だからといって女装をしなかったわけではない。
女装は確かにしていた。
コスプレのための服や道具を買うときなんかは女装が必須だった。
そのほうが心置きなくコスプレのための物を選べるからだ。
男の恰好のまま、女性の服を選んでいたら周りの目が気になって買い物に集中できない。
買い物に集中するための女装だ。
後ろ姿を撮るためとか、女装することそのものが目的だったころとは少し違う。
コスプレの準備をするための女装だったのだ。

コスプレのときは地声でも問題なかった。
だが、さすがに街中で女装しているときはそのままの声は出しづらい。
だから女の声を出せるように練習した。
やがて練習の甲斐もあって、女性の声も出せるようになった。

コスプレのあるイベントのとき、初めて女性の声で話したときの仲間の顔は忘れることができない。
まさに呆気にとられたという表情が並んでいた。
僕と瑞希は腹を抱えて笑い転げたほどだ。

それまでも結構持ち上がられていたと思うが、そのときからはアイドルのように扱われるようになった。
コスプレは自分の存在価値を確かめることができる唯一の場所だった。

そんな楽しいだけの大学生活は永遠に続くものではない。
幸いなことに大学の単位だけは真面目に取っていたので、卒業することは問題ない。
しかし卒業後についてはまだ何も決まっていない。
そろそろ真面目に考えないといけない時期なのだ。
卒業後のための対応、それは就活だ。
周りが就活を始め出したという声を聞いているときは、少しくらい遅くなっても、という気持ちだった。
そろそろ始めなければ、と思ったときには、完全に出遅れていた。
中には自ら起業するなんて奴もいた。
しかし僕には起業する意欲なんてあるはずもないから、どこかの企業に就職することを目指すしかない。
すでに出遅れているのだから、かなり真剣にやらないとヤバい。
僕は就職が決まるまで女装を封印することに決めた。
出遅れたせいか、誰もが知っている会社はすでに申し込みすらできない状況だった。
そこで僕は聞いたこともない会社を中心に手当たり次第申し込んだ。

その日は建築の設計会社の面接だった。
建築なんて全然知識がない。
しかし選り好みを言っている場合ではないのだ。
受け付けてもらえさえすればとりあえず申し込んでみる。
面接までしてもらえばラッキーだ。
もう少し早く始めればよかったと今さら後悔しても仕方ないのだ。
行きて行くために今頑張るしかないのだ。

僕は面接を受けるために会社に向かっていた。
場所を確認しようと手に持ったスマホを見た時だった。
ドンッ!
背後からぶつかられ、あやうくスマホを落としそうになった。
「あっ、ごめんなさい」
女性だった。
僕の顔を覗き込むように謝ってくれた。
「あ、いえ、大丈夫ですから」
僕は反射的にそう口にしていた。
すると、ニコッと笑って、颯爽と歩いて行った。
恰好いいな。
僕はその女性の後ろ姿をずっと見ていた。
覗き込まれた時の顔も好きなタイプだった。
服装はビジネススーツで、スカートはタイトスカートだ。
髪はショートヘアだった。
後ろ姿は僕の好きなタイプとは違う。
それでも素敵だと思った。
女性が入ったのは、まさに今僕が向かっている会社が入っているビルだった。
あんな人と同じ職場だったらいいな。
このビルにはいくつかの会社が入っている。
もし同じ会社でないにしてもうまくいけば毎日会えるかもしれない。
就職できるかも危うい状態にもかかわず、僕はそんな邪なことを考えていた。

それから1時間後、面接試験は終盤に入っていた。
目の前には面接官が3人いたが、質問をするのは真ん中の面接官だけだった。
その後ろに同じくらい若いラフな恰好をした人が座っていた。
それにしても、この会社の試験は、これまでの会社に比較して、あまり試験らしくなかった。
最近興味のあるテレビ番組とか、そこからスポーツの話になり、好きなアイドルの話になったりしていた。
おかげで面接試験にもかかわらず、僕の気持ちには緊張感がなくなっていた。

「ところで君はどうして我が社に入りたいと思ったんだね?」
ここに来て、やっと面接らしい質問が来た。
「建築分野に興味があるからです。それにここで働けば、さっき見た恰好いい女性と一緒に働きたいなって思ったからです」
緊張感が消えていたせいか余計なことを言ってしまった。
全然質問をしない端の面接官が苦笑するのが目に入った。
失敗した!
最初の気楽な質問は僕の本性を引き出すためのものだったのだ。
「ほぉ、恰好いい女性か。それってどんな人だったの?」
なぜか後ろに座っていた若い男性が聞いてきた。
回答した流れで話するしかなかった。
「このビルの人だと思うんですけど、軽くぶつかったときすぐに『ごめんなさい』って言ってくれたんです。今の時代、スマホを見ながら歩いてるせいで、やたらとぶつかるくせに、何もなかったように去って行く人が多いじゃないですか。なのにサラッとごめんなさいって言えるなんてカッコいいなって思って」
「川瀬くんのことかもしれんな?」
質問した男性が真ん中の面接官に聞いた。
しかし面接官は何も言わず、聞いた男性を睨みつけた。
「あっ、悪い。何も言わない約束だったな」
若い男性が黙り込んだ。
すると再び面接官が質問してきた。
「建築分野に興味があるということだけど、具体的にはどういうところかな?」
それからは真面目な質問が続いた。
最初の気楽な質問は緊張をやわらげるためのもので、後半がメインだったのだろう。
しかし後半の僕の回答は散々だった。
「今日の結果は後日連絡します」
5日後、予想通り不採用の連絡が届いた。

それから何度もエントリーシートを出したり、面接を受けに行ったりした。
しかしさっぱりだった。
卒業まで半年を切った時期になっても全然就職先が決まらない。
卒業に必要な単位を取ってしまっていたので、卒業することはできる。
しかしこんなことだったら単位をとらずに落第したほうがよかったのかもしれない。
そんなつまらないことすら考えてしまう。
自分の考えがどんどんネガティブな方向に向いてしまうのだ。
そんな自分の気分を何とかポジティブに変えたかった。
だから気分転換をしようと思った。
久しぶりに女装しよう。
そう考えて、すぐに行動を起こした。


久し振りに女性の服を手に取るとそれだけでドキドキしてきた。
しばらくの間、忘れていた胸の高まりだった。
これだけでも気分転換は成功だ。
久し振りの化粧もうまくいった。
さすがに一人で出掛けるのは気後れしたので、瑞希にメールを入れた。
できれば一緒に買い物でもしないかと。
しかし、瑞希からは何の反応もなかった。
きっと瑞希も就活なんかで忙しいんだろう。
仕方がない。
一人で行こう。
バレない自信はあるし、問題ないはずだ。
そう自分に言い聞かせた。

久し振りの女装外出でやったことはウィンドウショッピングだった。
レディースの服や下着を見てるだけで楽しかった。
買いたい物もいくつかあった。
しかし、買ってしまうと女装生活にまた突入してしまいそうな気がする。
就職が決まるまではまたのめり込むわけにはいかない。
だから、我慢して買わなかった。

男性から声をかけられることもあった。
お茶くらいはつき合った。
楽しい半日だった。
これで明日からまた就活を頑張れそうだ。
気分転換はうまくいったように思えた。


さて帰るとするか。
そう思い家路に着こうと横断歩道を渡ろうとしたときだった。
左折しようとした車に当たりそうになった。
僕は尻餅をついてしまった。
すると車が急停止した。
「大丈夫ですか?」
車から男性が降りてきて、僕を気遣ってくれた。
「あ、はい、大丈夫です」
僕はスカートを気にしながら立ち上がった。
別にどこも痛みはなかったし、怪我をしている様子はなかった。
「後で何かあったら大変ですから、とりあえず病院に行きましょう」
そう言われて僕は初めて運転していた男性の顔を見た。
「あっ…」
思わず声を出してしまった。
その男性は、以前面談していた建築設計会社の人だった。
僕の話した恰好いい女性の話にのってきてくれた人だ。
男性も僕の反応で思い出したようだ。
「君はこの前うちの社を受けた確か塚本さん…だったかな?」
どういうわけか覚えられているようだ。
それにしても女装しているのにバレるとは思わなかった。
ここはシラを切るしかない。
「あ、違います。人違いです」
しかし男性は僕の言葉を無視した。
「いや、そんなことより、怪我がないかのほうが心配だ。とりあえず僕の車に乗って」
逃げようとする僕の腕をつかまれ、僕は強制的に男性の車に乗せられた。

男性は黙って車を走らせた。
何も喋らない。
僕も口をきかなかった。
でも頭の中は不安でいっぱいだった。
どうしてバレたんだろう?
どこに連れていかれるのだろう?
もっと必死で抵抗して車に乗らなければよかったのに…。
そんなことを考えていた。

10分ほど走っただろうか。
車は病院の駐車場に入って行った。
本当に医者に連れていかれるとは思ってなかった。

「本当に怪我はありませんから、いいです」
僕は絶対に車から降りないと決めていた。
「君みたいな人でもちゃんと診てくれる病院だから」
男性の言った「君みたいな」というフレーズが気になった。
おそらく「ニューハーフでも」とか「女装者でも」とかいう意味だろう。
僕はそんな言い方をされることに少し腹が立った。

「ふぅ、仕方がない。君はなかなか頑固そうだね。それじゃもう少し話をしやすいところに行こうか」
男はすぐに諦めて、病院から出て行った。
そして病院からさらに数十分走り、車は住宅街のある家の前で停まった。
それなりに立派な家だ。
「ここが僕の家だ。誰もいないから、遠慮しないで入って」
車を駐車場に入れると、そう言って、さっさと一人で家に入っていった。
絶対に思い通りになんかならない。
そう思っていたが、車に一人残されると、意地を張るのが馬鹿らしくなった。
ここで逃げることもできただろう。
しかし男性がどういう行動に出るのか何となく興味があった。
僕は男性が行った方向に歩いていった。

「やあ、いらっしゃい」
男性は嬉しそうに僕を招き入れてくれた。
通されたリビングにはコーヒーが置かれていた。
「とにかく座って」
僕はスカートを気にしながら椅子に座った。
「そんなに警戒しなくていいよ。別に襲ったりしないから」
襲う!
女装していても、自分が女だと思われることがあるなんていう自覚がなかった。
だから襲われるかもしれないなんて思いもしなかった。
男だと見破られることだけを恐れていたのだ。
男性が"そういう"趣味ならば襲われる可能性があるのだ。
目の前のコーヒーに睡眠薬でも入れられていれば思う壺かもしれない。
僕は警戒した。
「あれ?もしかして逆に警戒させちゃったかな?本当に大丈夫だって」
男は僕の目の前に座った。
「それより聞きたいことがあるんだ」
「私もです」
「あ、そうなんだ。それじゃ、君の質問から聞こうか」
「どうして私のことを見破ることができたんですか?絶対にバレない自信があったのに」
「なぁんだ、そんなことか。どんなものでも見る人が見れば、真贋は分かるものなんだよ、当たり前じゃないか」
「真贋………」
自分が贋物だと言われたようで腹が立った。
今そんなことで怒る場合じゃないとは分かっていたが。

「それじゃ、僕からの質問、いいかな?」
僕が腹を立てていることには気がつかないのか、男は何事もなかったかのように言った。
「何ですか!」
僕は少し怒りながら聞いた。
「君の今の恰好は趣味なの?」
男の質問に僕はどう答えていいのか分からなかった。
すると男が言った。
「もしその姿で面接に来てくれたら、採用してたんだけどな」
「えっ?」
思わぬ言葉に警戒していたことが頭から消えてしまった。
「実は僕は女性が苦手なんだ。今は少しは慣れたんだが、やっぱりまだ緊張する。だから秘書は男性のほうがいいんだが、取引先には女性秘書のほうが受けがいい。それを解決するのが…」
「わたしのような存在、ですか?」
話が思わぬ方向に向かっているような気がする。
「そう。ところで、もう一度聞くけど、君のその恰好は趣味なの?それとも女性として生きたいの?」
どう回答すればいいのか相手の顔をうかがった。
僕が何も言わないので、男性は言葉を続けた。
「もし女性として働きたいのなら、採用を検討しよう」
この男性はどういう立場なのだろうか?
面接官に睨まれていたくらいの奴にそんな権限はあるんだろうか?
「あ、あのぉ、あなたは…」
「えっ、僕のこと、分かってないの?それで面接に来るのはいただけないな。それじゃやっぱり不採用のままにしておこうかな?」
男性は楽しそうに笑いながら話した。
「僕はあの会社の社長の北原敬三だ」
「えっ!」
驚いた。
まさか社長だったなんて。
でもあのとき…。
「面談のとき、面接官から注意されてたじゃないですか?」
「ああ、あれ。どんな人間が受けに来るかを見たかったんだけど、僕が意見を言うと、下の者は従わなくちゃいけないだろ?だから、僕は何も質問しないって約束で、君たちのことを見てたんだ。だから、一言でも質問すると、それは約束違反ってことになるわけさ」
「そう…だったんですか?」
「で、どうする?採用を検討ってことでいいかな?」
「…考えさせていただいてよろしいですか?」
「ああ、もちろんだ。ただし無条件に採用というわけにはいかない。少なくとも君の秘書としての能力を見たい。もし女性として働く気になれば1週間テストということで僕の秘書をしてもらいたい」

テスト!
テストがあるのか?
考えてみれば当然の話だ。
それにしても、思わぬところから就職のチャンスが転がり込んできた。
女装もできて、仕事もゲットできるのだ。
何を迷う理由があるのか?
24時間、女装するくらいなら、それほど難しくない。
しかし趣味の女装ならともかく、女性として働くことなんてできるんだろうか?
他人の目も気になる。
社長みたいにすぐに見破る人だっているだろう。
それにしてもこのチャンスは簡単に諦めるには勿体ない気がする。
僕はどうすべきか分からなくなっていた。

その日から悶々と悩む日が始まった。

どうしよう?
もう少しこのまま就活を頑張ろうか。
しかし、これまでの実績から考えると就職内定をもらえるのは望み薄のような気がする。
いっそのこと女性として北原の会社に就職しようか。
そうすればとりあえずは仕事に就くことはできる。
しかし、それで就職できたとしても、絶対に問題が起きるだろう。
そうなると傷つくのは僕自身なのだ。

かなりの時間、いろいろ考えた。
いくら考えても、いくら悩んでいても堂々巡りだ。
結論は出そうもなかった。

雅臣か瑞希に相談しようかとも考えた。
しかし相談したって、あいつらには他人事にしか過ぎない。
馬鹿にされるか面白がられるかだろう。

そうするうちに悩み続けること自体が面倒になってきた。
ダメ元でやってみればいい。
ダメならそれからまた考えればいい。
女性としてとりあえずはチャレンジして、ダメだったらまた頑張ることでいいような気がしてきた。
せっかくのチャンスなんだから。
考えることに疲れていた僕は、楽観的というかやけくそというか、そんな結論に達していた。

北原社長に電話した。

「そうか、来てくれるのか。それじゃいつから来れる?」
素直に喜んでくれているのが声でよく分かった。
「いつからって来年の春じゃないんですか?」
「少し事情があってね。できればなる早で来て欲しいんだ。何か問題はあるのか?」
「大学の単位は取れてるので、明日からでも行けるんですが、服が…」
「服?」
「はい、あまり秘書にふさわしい服を持っていないんです」
「そうか。女性として働くには準備が必要ってわけか…。分かった、支度金として20万渡そう。それで準備して、来週から来てもらえるかな」
「えっ!20万も、ですか?」
「女性の服は意外と高いからな。足りなければ言ってくれればいい」
「ありがとうございます」
「それじゃ君の口座番号を教えてもらえるかな。早速手配するよ」

電話を切ってから2時間後にインターネットバンキングで残高を調べた。
すでに20万円が振り込まれていた。
さすが社長だ。
行動が素早い。

僕は女装してデパートに行き、店員と相談して服を揃えた。
男だったら、スーツとネクタイをいくつか持っていれば何とかなる。
女性の場合、毎日同じ服装というわけにはいかない。
ワンピースやスーツ、ブラウス、スカートを数着買った。
それだけではなく、ネックレスやイヤリングなどアクセサリもいくつか買った。
服の組合せやアクセサリなどで、様々なバリエーションができるよう店員からアドバイスをもらいながら選んだのだ。
かなりの量の買い物になった。
20万円ももらったから余裕だと思っていたが、実際ほとんどお金は残らなかった。
来週からいよいよ女性として働くのだ。
もしかするとかなり大変な選択をしたのかもしれない。
早くも少し後悔し始めていた。


「塚本直美です。今日からお世話になることになりました。よろしくお願いします」

週が明けると、僕は北原の会社で皆の前で挨拶していた。
初日ということもあり、僕は白のスーツで決めていた。
皆の興味本位の視線が居心地を悪くする。
「塚本さんは今度退社する川瀬さんの後任として来てもらうことになった。みんな、よろしく頼む」
そう紹介された。
いよいよ僕の女性としての、直美としての社会人生活が開始されたのだ。

「わたし、川瀬智美。これから2週間で、引き継ぎしなくちゃならないから、しっかり頼むわね」
僕の目の前に現れたのはあの日面談の日に会ったかっこいい女性だった。
「あ、あなたは…」
「何?」
「あ…いえ。よろしくお願いします」
僕は何も言わないことにした。
「これからいろいろと業務の引き継ぎをしていくけど、まず最初にこれだけは確認させてね」
「あ…はい」
「あなた、男なんでしょ?」
「えっ…あ、あの……」
いきなりの質問にどう答えればいいのか分からなかった。
何かヘマして男だってバレてしまっていたんだろうか。
「あの社長が直接採用するなんて、それしか考えられないもの。だって社長って本当は女性が苦手なの」
「はい、聞いてます」
「あ、聞いてるんだ。でも、それって社長のトップシークレットだから、絶対に他の人には言わないでね。それであなたは…」
「はい、私は男です。もしかして川瀬さんも…」
「もちろんわたしも男よ。あの社長に採用してもらったんだから。あっ、でもこれも内緒ね。社長と人事の責任者しか知らないことだから」
「……はい…」
知らなかった。
でも男でもあれくらい恰好良くなれるってことが分かっただけでも良かったように思える。
手術はしてるんだろうか?
そのことを聞きたかったが、今は聞くタイミングでないように感じた。
「それじゃ、早速仕事の引き継ぎを始めるわね」
すぐに仕事の話に切り替わった。
「引き継ぎって…。1週間様子を見てから採用かどうかって言われてるんですけど」
「そんなの社長の体裁を取り繕って言ってるだけよ。あなたは社長の好みのタイプだから、どんなことがあっても、そのまま採用されるから大丈夫だって」
「そう…なんですか?」
好みのタイプと言われても複雑な心境だ。
僕は仕事に就くために女装しているのであって、そんな気は毛頭もない。
そもそも男とつき合うなんて考えたこともなかった。
たまにお茶したり食事を奢ってもらえるくらいは期待していたけれど、それだけだ。
もしも言い寄られたらどうしよう?
社長だから無下にはできない。
でもそんなことは絶対に無理だ。
仕事以外で悩むなんて考えてもいなかった。

僕の秘書業務が始まった。
僕の仕事の大部分は社長のスケジュール管理と接客ということだ。

社長より早く出社して、その日のスケジュールを印刷して、机の上に置いておく。
社長が出勤したら、すぐに口頭でその内容を伝えるのだ。
社長は自らメールを使いこなすが、なかなかメール処理の時間がとれないため、メールの代筆もあるらしい。
さすがに最後は確認してから自ら発信するが、文章そのものは秘書が書いたものということも多いとのことだ。

そして、もうひとつが接客だ。
社長のところには結構な数のお客様がやってくるらしい。
初日でさえ、3社のお客様がやってきた。
そのときのお茶出しは最低限しなくてはいけない。
もちろん重要なお客様にはお茶菓子も必要だ。
それを切らさないように準備をしておくのも秘書の仕事とのことだ。
今は智美さんが手伝ってくれるけど、一人になったときはかなり大変になりそうだ。
「適当にやっておけばいいわよ」と智美さんは言うが、そんなふうにできるまではかなりの時間が必要だと感じた。

とにかく社長は忙しいので、そのフォローを心がけなくてはいけないのだ。
秘書というのはある意味社長以上に大変かもしれない。
本当に僕に務まるだろうか?

そんな不安を抱きながらも、1週間はあっという間に過ぎた。
そして、智美さんが予告したように、僕の採用は決定した。
大きなミスこそなかったが、充分に仕事ができたとは思えなかった。
僕の採用は、やはり僕が社長のタイプのせいなのだろうか。
少し先行き不安になってきた。


いよいよ智美さんも残すところあと3日という日、智美さんの送別会が会社全員参加で開催された。
強く感じたのは智美さんが皆に慕われていたこと。
いろんな部署の人と気楽に挨拶を交わしていた。
僕も10日ほど働いたが、まだ社長以外とほとんど会話を交わしていない。
女性社員は7人いるが、見破られそうで近寄るのも怖いのだ。
僕は智美さんの代わりなんてできそうもない。
そう思った。
僕は僕のできる範囲でやっていくしかないと開き直るしかないのだ。
ただでさえ女装で働くという通常では考えられない状況なのだ。
あれもこれもと頑張れば僕自身が参ってしまう。
今は秘書業務を頑張ろう。
それしかないのだ。

一応その宴は僕の歓迎会ということにもなっていた。
僕は女性だと認識されているせいか、皆から優しくされた。
僕もそれなりに歓迎されているようだ。
そして優しくはされるが、酒の席であってもあからさまに口説かれるようなこともなかった。
皆、紳士なんだな。
そのとき僕はそう思っていた。
そして智美さんがいなくなって僕ひとりになっても何とかなりそうな気も少しだけしていた。

「川瀬くん、今までありがとう」
智美さんの本当の最後の夜、僕は社長と智美さんとともに、高級なレストランにいた。
智美さんの最後の送別会だ。
「こちらこそ今までありがとうございました。直美ちゃん、社長のこと、よろしくね」
「あ、はい、任せてください。私こそ短い間でしたけど、いろいろありがとうございました」
「それじゃ始めようか」
僕たちはワインで乾杯した。
そして料理が運ばれてきた。
すごくおいしい料理だった。
「そう言えば、塚本くんはあの話、川瀬くんにしたのか?」
「あの話って?」
社長は何の話をしようとしているのか分からなかった。
「面接のときに聞かされた話だよ」
僕は思わず顔が赤くなるのを感じた。
「何なんですか、あの話って?」
智美さんが興味を持って聞いてきた。
「もう最後なんだし、川瀬くんに話しておいた方がいいんじゃないかな」
「そうですか…。それじゃ話しますけど、それほど大した話じゃないですよ。実はですね、……………」
僕はあの日の話をした。
「へえ、直美ちゃんって私に憧れてくれたんだ。もっと早く教えてくれれば、もっと優しく教えてあげたのに」
「智美さんは充分優しかったですよ」
「そうかな。それじゃそういうことにしておいて」
雰囲気がなごんだことで、僕はずっと気になっていたことを聞くことにした。
「智美さんはこの会社を辞めてどうされるんですか?」
「あれ?知らなかったの?社長、話さなかったんですか?」
「ああ、プライベートなことだし、話すんだったら本人からの方がいいだろうと思って」
「確かにそれもそうですね」
そう言って、智美さんは僕の方を見た。
そしてこれまで見せた最高の笑顔を浮かべて言った。
「実はね、私、結婚するんだ」
僕はその言葉に驚き、何も言葉を発せられなかった。
「彼、アメリカ人なの。アメリカだったら、同性婚が認められてるでしょ?だから彼とアメリカで結婚するの」
「えっ、アメリカに行っちゃうんですか?」
「そうよ。そこでお嫁さんになるの」
「…そうなんですか。おめでとうございます」
「ありがとう。直美ちゃんも社長とうまくやってね」
「えっ!」
「社長、直美ちゃんのこと、好きでしょ?社長って本当に分かりやすいですもんね」
ちょっとおどけたように智美さんは北原社長に話した。
北原社長はその言葉には返事しなかった。
しかし態度には動揺が現れていた。
何も返事しなくても、返事しているようなものだった。
「そういうことなの。だから、ね?」
微妙な沈黙が流れた。
やがてそれを打ち破るように智美さんが立ち上がった。
「それじゃ、私は先に帰ります。今まで本当にありがとうございました。落ち着いたら遊びに来てくださいね」
そう言って、店から出て行った。

残された僕たちには話題はなかった。
智美さんが最後にあんなことを言ったものだから余計に話すことがなかった。
「智美さんも帰ったし、もうお開きにしません?」
僕は早くひとりになりたかった。
だからそう言ったのだが、返ってきた返事は僕の期待しないものだった。
「もう少しだけ上のバーでつき合ってくれないか」
北原社長がそう言った。
さすがにそのまま帰るのは余計に気まずいと思い、僕は応じることにした。
「あ、そうですね。そうしましょうか」

しかし、バーに行っても、社長からは何も言われなかった。
ただ並んで座って、酒を飲んでいるだけだ。
僕が社長を見ても、社長はグラスを見ているだけだ。
全然僕の方を見てくれなかった。
何か言ってくれればいいのに…。
そんな状況に僕はイライラしていた。
そしてそんな自分に驚いた。
僕は何を期待しているんだろう?
もしも言い寄られたりしたらどう応えるつもりなんだろう?
男どうしでありえないと思う反面、流れに任してそういう関係になっても仕方ないんじゃないかと思いもした。
わずかだが社長を受け入れようとしている自分がいるのは事実だ。
いずれにしても社長が言ってくれないと、自分の気持ちがまとまらない。
好きなら好きと言って欲しい。
好きと言わなくても僕に何か言って欲しい。
そんな悶々とした時間を過ごした。
社長は僕がそんな気持ちだとは全然気がつかない様子だ。
無言の時間が少し過ぎたあと、急に社長が僕の方を向いて言った。
「川瀬くんがいなくなったが、もう君だけで十分やっていけるだろう。来週からよろしく頼むよ」
それだけ?
それだけを言うためにバーに誘ったの?
僕は怒りすら覚えた。
社長と別れたあと、僕の胸の中には何とも言えないモヤモヤとしたものだけが残った。

その夜、僕はなかなか寝付けなかった。
好きなら好きって言えばいいのに…。
もし本当に言われたら、どう応じたか分からない。
でも何か言って欲しかった。
そんな心理の中、僕はいつの間にか自分のモノを扱いていた。
頭に思い描いていたのは北原社長だ。
そんな自分の心理と行動が異常だとは思わなかった。

秋が明けると秘書として仕事をこなすだけの毎日が待っていた。
僕は淡々と仕事をした。
社長は前の週に起こったことはまるで忘れてしまったように見えた。
僕もあえてそのことには触れようとしなかった。
それでも時々は昼食をともにすることがあった。
そんな機会に僕は北原社長自身のことをいろいろと聞いてみた。
もちろん社長個人のことが気になっていたからだ。
最初はそんな質問をしてくる僕に訝しげにしていた社長も答えてくれるようになった。
おかげで少しずつだが、北原社長のことが分かり始めていた。

社長は女装した男が好きなんだそうだ。
さらにいいのは完全に性転換したのがいいらしい。
しかもどう見ても女にしか見えないのが好きとのことだ。
それだったら純女でいいだろうと思うのだが、そこは決定的に違うらしい。
やはりモト男というところで不可欠なのだそうだ。
自分の嗜好を棚にあげるのも何だが、人の嗜好というのは本当に難しい。

そしてどうやら社長にとって、僕は好みのタイプにピッタリらしい。
確かに女装しているときに、女性として扱われるのは嫌な気はしない。
しかし僕の性的嗜好は女性だ。
女性として働いていても、そこは変わらない。
変わらない、…はずだ。
たぶん………。


その日はかなり遅い入社面接のある日だった。
ほとんどの新卒はすでに行き先が決まっているはずだ。
しかし、この時期になっても決まっていない者がいる。
あるいは決まったものの、まだ迷っている者がいる。
そんな人物にはまれに優秀な者がいたりする。
それほど大きくないうちのような会社にとって、そんな機会を狙って優秀な人材を採りたいのだ。
社長は相変わらず出席するだけという約束で面接に参加していた。
したがって社長と業務の相談をするために僕も面接会場となった会議室に顔を出すことがあった。
だから否応なしに面接を受けに来た者と顔を合わさざるをえなかった。
そして、そんな中のひとりの顔を見て驚いた。
棚瀬瑞希だった。
僕は瑞希の顔を見て驚いたのだが、それを表情に表さないよう努めた。
しかし、瑞希にも僕のことをしっかりと見られてしまった。
気づかれたかな?
今の僕は完全に女装しているから、普通の者からは気づかれないはずだ。
しかし、瑞季とはコスプレでのつき合いだった。
男の姿はもちろん女装も何度も見ている。
瑞季にとっては、女装の僕の方が普通だったかもしれない。
僕だと気づかれた可能性はかなり高いように思えた。

その日、面接がすべて終わったころ、予想通り瑞季からメールが届いた。
『今晩、部屋で待ってるわ。絶対に来てね。』
そう書かれていた。

僕は仕事で着ていた服装のまま、すなわち、女性の服装のまま、瑞季の部屋に行った。
「本当に来てくれたんだ」
「絶対に来てねって書いてあったからな」
「それにしても、最近大学で見ないと思ってたら、あんなところにいたのね。しかもそんな恰好で。バイトなの?」
「いや、就職だよ。女性としてあの会社に就職したんだ」
「大丈夫なの?そんなことして。会社の人は知ってるの?」
「もちろんだよ。僕が女装した男だって会社の人間は知ってるよ」
瑞樹は興味深々で僕の身体に触れんばかりに近づいてきた。

「へえ、すごいね。そんなこと、できちゃうんだ。手術とかしてないの?」
「もちろん。そこまでする気はないよ」
「でもホルモンくらいはしてるんでしょ?」
「本当に何もしてないよ」
「でも、すごく綺麗になったよ。もしかして誰かに恋してるとか」
そう言われて、僕は北原社長を思い浮かべた。
「あ、図星なんだ。そうよね、女は恋をすると綺麗になるもんね」
瑞季は身体を僕に密着させてきた。
瑞樹の息が僕の首にかかった。
「そんなんじゃないよ」
そう言い返しながら、僕は瑞季から視線を外した。
「ふーん、それじゃそういうことにしておいてあげる。ところで、ここはどうなっているの?」
瑞季の手が僕のスカートの中に入ってきた。
そしてガードルの上から僕のペニスに触れてきた。
「やめろよ」
「そんなこと言ってるけど、ちゃんと興奮してるじゃない。大きくなってきてるよ、ここ」
瑞季の手がガードル越しに僕のペニスを握った。
僕はどう反応していいか分からず、されるままにされていた。
瑞季は僕の頬に軽くキスをすると、僕の前に跪いた。
僕は次の展開の期待から、生唾を飲み込んだ。
そして僕の期待通り、瑞樹は僕のスカートを捲り上げた。
さらにガードルの中に押し込められていた僕のペニスを取り出した。
「ここはしっかり男の子なんだね」
そう言いながら、僕のペニスを口に含んだ。
僕は初めての体験に身体を固くしていた。
こんな経験はこれまでの人生でまったくなかった。
僕は純粋な童貞なのだ。
ましてや瑞季とこんなことになるとは思ってもいなかった。
コスプレするときにはいつも一緒に着替えたせいか、何となく同性のように考えていたのに。
それにしても瑞季の口の中は温かくて気持ち良かった。
僕は社長にこんなことができるだろうか?
ふとそんなことを考えてしまう自分に驚いた。
瑞季の舌はペニスの先に纏わりつくように動いていた。
「瑞季、やばい。もう出そうだ…」
次の瞬間、僕は瑞季の口の中に射精していた。
瑞季の口から僕の放った精液が垂れていた。
それは何とも言えない淫らな光景だった。
瑞季は口の中の精液を飲み込んだ。
「塚本くんのザーメンって濃いのね」
そうして僕にキスしてきた。
自分の出した精液の味がした。

「もう大きくなってる。だいぶ溜まってるのね。ベッドで続きしましょ」
瑞季にベッドに寝かされた。
そして僕が見ている前で、瑞季がゆっくり全裸になった。
過去には一緒に着替えたこともあったが、ほとんど瑞季のことは見ていなかった。
自分が変身していくこと、それだけが僕の興味だったからだ。
だからこうして瑞希の全裸を見るのは初めてのようなものだった。
そして初めて見る瑞季の全裸姿は最高に綺麗だった。

僕はその美しい身体を見て羨ましいと思った。
小振りだが綺麗な胸のライン。
丸い綺麗な形をしたヒップ。
そして見事にくびれたウエストライン。
女性というだけで、あんなに美しい身体が手に入れられるなんてずるいと思った。

瑞希が僕のお腹の辺りを跨ぐように座って、僕を見下ろした。
「この胸は相変わらず作り物を入れてるの?」
そう言いながら僕の胸を揉んだ。
雰囲気で僕は思わず喘ぎ声を出した。
「あら?感じるの?」
瑞季は僕の服のボタンをいくつか外した。
「なんだ、やっぱり作り物じゃない。もしかしたら、本物かと思っちゃった。女の乳房ってこんな感じよ」
瑞季は僕の手を乳房に当てさせた。
「柔らかいでしょ?いいわよ、好きにしても」
僕は言われるまま、瑞希の乳房に触れた。
そして軽く揉んでみた。
柔らかい。
こんなに魅力的なものが身体についているなんて。
僕は乳房を揉む以上のことはしなかった。
「塚本くんってもしかして初めてなの?」
なかなか次の行動を起こさないのをそう理解したようだ。
実際僕には経験がなかったので、素直にうなずいた。
「そしたら私が塚本くんの童貞をもらうことになるのね。もしかしたら処女をもらうって言った方がいいかな?」
そう言って、僕のペニスを握りながら、腰を軽く浮かして、あの部分にペニスを先をあてた。
そうしてゆっくりと腰を下ろした。
彼女の中に僕のペニスが飲み込まれていった。
「あ…塚本くんのっていい………」
瑞季は激しく腰を振り始めた。
そして感じているのか大きな声を上げている。
瑞季に動かれることで僕の快感も強くなってきた。
やがて瑞季の中に射精してしまった。
「もしできちゃったら責任とってね」
瑞季の怪しい呟きが恐ろしかった。

その夜、部屋に戻ってからも、瑞季との出来事を思い出していた。
それは男としての経験ではなかった。
瑞季の側での回想だった。
瑞希のように抱かれたらいいのに。
瑞希のように突いてほしい。
瑞希のように感じたい。
そう思うようになった。
最初に女装するようになったときのように、その考えに取り憑かれた。
僕の性格として一度思い込むと歯止めが効かない。

その日の夜は当然のようにセックスの夢を見た。
夢の中で僕は女だった。
そして相手はもちろん北原社長だった。


次の日は社長の顔をまともに見ることができなかった。
顔を合わすとどうしても昨夜の夢を思い出してしまう。
すると間違いなく顔が真っ赤になるような気がするのだ。
顔を見ないでいると、どういうわけか股間に視線に行くようになった。
すると変な妄想が始まる。
僕は瑞季のようにフェラできるだろうか?
社長のペニスを受け入れることができるだろうか?
そんなことを考えてしまうのだ。
おかげでその日は社長との会話がギクシャクしたものになってしまった。

その日の終わり、社長から声をかけられた。
「今日はどうしたんだ?全然私の顔を見てくれなかったが」
「何でもありません」
そう答えた。
「そうか。別に何でもないならいいんだ…」
そう言って社長が寂しそうな顔をした。
僕は何となく罪悪感に襲われた。
やはり打ち明けることにした。
「実は…」
その言葉だけで社長の表情から寂しさが消えた。
やはり打ち明けるほうがよさそうだ。
「実はゆうべ社長に抱かれる夢を見てしまったんです…」
「それで僕の顔を見るのが恥ずかしくなった…ってことかな?」
「…はい……」
「それは…」
そこで社長は次の言葉を言い淀んだ。
言葉を選んでいるようだ。
僕が黙って待っているとおもむろに言った。
「……僕が期待してもいいってことかな?」
「それは…分かりません。でも社長のことを意識してるってのは本当です」
「それじゃ今日これから食事でもしないか。年甲斐もなく焦っているようで恥ずかしいけど」
社長は本当に恥ずかしいようだ。
顔が真っ赤になっていた。
そんな社長の様子が、僕にとっては好ましく思えた。
「嬉しいですけど、今日はやめておきます。私の気持ち自体が混乱してますし」
「それじゃ明日は?」
「本当に焦ってるみたいですね?」
「確かにそうだな」と言って社長が笑った。
そんな笑顔を見ていると、愛おしく思えた。
「…いいですよ、明日なら」
笑顔につられるように、そう答えた。
「それじゃ明日楽しみにしてるよ」
「はい、私も」
その言葉は本心からだった。

その日の帰り、僕は明日のデート用の服を買いに行った。
これまで社長に知られている服では行きたくなかったのだ。
そんなことを考えるなんて自分でも不思議だった。
考え方が女性的になっているような気がした。

僕は何軒もの店をまわって、シックなネイビーのワンピースとオフホワイトのボレロを買った。
着飾りましたという雰囲気もなく、これくらいが適当なように思えたのだ。
その服に合わせてバッグと靴も買った。
もちろん下着も。
かなりの出費になったが、そんなことは気にならなかった。

明日はデート。
これまでも二人で食事をしたことはあるが、明日は特別なイベントだ。
そんなことを考えたせいか、その日の夜は気持ちが昂ぶって、なかなか寝つけなかった。

出勤にはいつもの服を着ていくことにした。
昨日買った服は紙袋に入れた。
デートを楽しみにしているなんて社長に思われたくなかったのだ。

その日は何となく二人の間によそよそしい雰囲気が漂っていたような気がする。
必要以上に意識していたせいかもしれない。
それでも何とか一日の仕事が終わった。

「それじゃ行こうか」
ようやく社長の口からデートのことが出た。
昨日のことをなかったことにされたら立ち直れなかったところだった。
僕はホッとすると同時にものすごくウキウキするような気持ちになった。
それを社長に感づかれるのは癪なので、あえて冷静を装った。
「ちょっと待っていただけますか。お化粧を直したいので」
僕は急いで昨日買った服に着替えた。
そして化粧を整えた。
化粧はできるだけナチュラルな感じに見えるよう最大限の注意を払った。

「お待たせしました」
「よし、それじゃ行こうか」
社長は僕を一瞥しただけで、服については何も言ってくれない。
それが大いに不満だった。
「男の人はこれだから…」
そう考えていた僕は自分のことを完全に女性視していた。

食事はおそらく美味しかった。
正直なところ、食事だけで終わるとは思っていなかった。
あとのことを考えると味どころではなかったのだ。

「部屋をとってあるんだ」
予想通りの展開だ。
僕は黙って頷いた。

社長は僕の腰に手を回してきた。
僕は社長の腕をとって歩いた。
部屋に入るとすぐに抱き締められた。
性急な感じが嬉しかった。
今まで僕を抱き締めたいのを我慢していた。
そのことが伝わって来たのが嬉しかったのだ。
僕が抵抗しないことが分かったのか、唇を重ねてきた。
初めての男性とのキス。
全然嫌なものではなかった。
だって好きな人とキスしてるんだから。
そのときにははっきりと社長のことを好きだと分かっていた。
僕は一生懸命彼の舌に自分の舌をからめた。

社長の手がお尻の辺りにあたっていた。
そうして強く彼の身体に引き寄せられた。
そうすることで彼のペニスがズボンの中で固く大きくなっていることを感じた。
僕とのキスとで興奮してくれていることが嬉しかった。

社長が僕のスカートの中に手を入れて、お尻を撫でてきた。
そのとき僕のペニスも大きくなっていることに気づいた。
ガードルの中で痛いくらい大きくなっていた。

社長の手が僕のボレロを脱がせた。
そしてワンピースの背中のファスナーを下げられ、ワンピースを脱がされた。
僕はキャミソールだけになった。

「綺麗だよ」
「社長も脱いで」
「分かった」

僕は社長が裸になるのを見ながらベッドに横たわった。
そしてボクサーショーツだけになってから、僕に覆い被さってきた。
キャミソールの上から人工乳房を揉んできた。
実際感じるはずがないのだが、僕は喘ぎ声を出していた。
雰囲気で感じていたのだ。

社長の手が僕の下半身に伸びてきた。
そしてガードルの上から股間を撫でるように触れてきた。
その瞬間、僕は身を固くした。
感じたわけではない。
何となく違和感を覚えたのだ。
その違和感はガードルに触れられている間ずっと存在していた。
やがて社長の手がガードルに入ってきた。
そして、ついに僕のペニスを握られた。
その途端、僕は正気に戻った。

「やめて!」
僕は急いで社長から離れた。
「やっぱり無理です」
僕は床に落ちていたワンピースを拾い上げ、身体を隠すようにした。
「どうして?」
「社長の前では女でいたいのに…。あんなところを触られたら自分が男だってことを思い出してしまうから…」
「そんなこと言ったって…」
沈黙の時間が流れた。

そしてその沈黙を破ったのは社長だった。
「それじゃどうしても無理なのか?」
「…ええ」
「そうか…、残念だ…」
社長が本当に悲しそうな顔をした。
僕は社長に何かしてあげなくちゃいけないように思えた。
僕は反射的に体勢を入れ替え、社長に覆い被さるような体勢になった。
ボクサーショーツに手を当てると、ペニスが硬く大きくなっているのが分かった。
社長の顔を見た。
社長も僕の顔を見ている。
「口で我慢してくださいね」
そうしてボクサーショーツをずらし、ペニスを取り出した。
(えっ、こんなに大きいの?)
自分のモノで見慣れているはずなのに、ずっと大きなものに思えた。
実際大きいのかもしれない。
すぐ近くで見ているせいかもしれない。
いずれにせよ自分に対して興奮してくれていると思うだけで、愛おしいものに感じた。
社長の視線を感じたが、あえて視線を合わせずに、ペニスをジッと見つめた。
生臭い匂いが社長を感じさせた。
僕はチラッと社長の顔を見て、ペニスの先に舌を這わせた。
社長が「うっ」と呻いたような声を発した。
しばらくペニスの先を舐め、そして全体を口に含んだ。
ペニスと絡めるように舌を動かした。
そして搾り上げるように口を
「出そうだから…もういいよ…」
それでも僕はやめなかった。
「もうやばいって」
その瞬間、僕の口の中に苦いものが広がった。
僕は口に出されたものを飲み込んだ。
そんなことができたことに自分でも驚いた。

社長は僕を抱き寄せ、まだ精液の残った口にキスをしてくれた。
僕も必死になって、彼と舌をからめた。
長い長いキスのあと、僕は彼の腕に抱かれていた。

「……ペニスなんかなくなればいいのに」
そんな言葉が自然に出てきた。
「無理することないよ」
「だって社長と愛し合いたいから。女の子になることができれば、きっと躊躇なく愛し合えると思うの」
「性転換するのって、想像以上に大変なんだぞ。一時の感情でそんなことを決めるもんじゃないよ」
「でも…」
「もちろん君が真剣に女性になりたいのなら、話は別だが」
「自分が女性のように抱かれたいっていうのは嘘じゃありません」
「それなら、まずはカウンセリングに行ってみるか?その気なら紹介してあげるが」
「そうですね、お願いします」


その日、早めに仕事を切り上げて、紹介された医者に行った。
病院と言っても病院らしい雰囲気はなく、お洒落なエステのような感じだった。
「北原から紹介で来た人だね。えっと塚本直彦さん、かな?」
「はい、今は直美と名乗ってますけど…」
「あ、そのほうが今の君にあってるね。で、直美さん、本当に男性なの?本当の女の子に見えるけど」
「はい、戸籍は男です」
「ずっと女性の恰好をしてるの?いつ頃から?」
「大学からです」
その日はそんな話をしただけで終わりだった。

「それじゃまた1週間後に来て」
「えっ、これだけですか?」
「そうだよ。まずは君の状況を知ることからだ。そんなに簡単に性同一性障害なんて診断できるもんじゃないんだからね」
「女性ホルモンとかはもらえないんですか?」
「必要ならば出すが、まだ早いね」
「ええ、そんなぁ…」
医者が次の患者を呼ぶように看護師に伝えた。
だから僕は診察室から出ていかざるを得なかった。

次の日、社長に診察の様子を報告した。
「なんだ、南のやつ、そんなこと言ってやがるのか。あいつ、変に真面目なとこがあるからな。ひと言言っておいた方が良さそうだな」
そう言って、電話をかけた。
しかし診察中ということで話せなかった。
社長の「あとで電話しておくから」という言葉を信じ、その日は普通に仕事をした。

次に診察に行ったときにすぐに南先生から言われた。
「北原は急いでたみたいだけど、直美さんも早い方がいいのかな?」
「あ、はい」
「でも性別適合化手術をしてから後悔しても遅いんだからね。直美さんが女性になっても大丈夫なのかを見極める必要があるんだ」
「それはそうでしょうけど」
「だからいくら北原の頼みでも、直美さんのこれからの人生のためにもきちんと診断するから、そのつもりで」
「そうなんですか……」
「何だか不満みたいだね。そう言えば、北原の奴、直美さんが法的に女性になれたら結婚したいと言ってたけど、それって本当?」
「えっ!」
初耳だった。
まさかそんなふうに考えてくれてたなんて。
僕は喜びと照れ臭さで顔が赤くなるのを感じた。
「ははは、どうやら本当らしいな。それじゃなる早で診断したほうがいいわけだね」
「はい、お願いします」

そんなやりとりがあったが、女性ホルモンを処方されるわけでもなかった。
僕のこれまでの人生をただただ話すだけだった。
僕のこれまでの人生と言っても本当のことを話すと性同一性障害でないと診断されそうな気がして、適当に脚色を入れた。
中学時代にふざけ合っていた友達を初恋の相手のように話したり、男の制服に違和感を感じていたように話した。
実際はそんなことはまったくなかったのだが、そのほうが性同一性障害に診断されるだろうという計算があったからだ。
南先生はそれを聞きながら、時々メモは取るが、にこやかに聞いているだけだった。
そんな話ばかりを話して、あっという間に4ヶ月が過ぎた。
この4ヶ月間、自分の中で作り上げたストーリーをもとに矛盾のない話ができたと感じていた。
間違いなく性同一性障害と診断されると。

「直美さん、今日はお待ちかねの診断結果をお話します」
やっと女の子になる一歩を踏み出せるのだ。
後戻りのできない一歩を踏み出すことへの不安がないと言えば嘘になる。
それ以上に僕は期待に胸を膨らませていた。
しかし南先生が言った言葉は想定していない言葉だった。
「残念ながら性同一性障害と診断することはできませんでした」
えっ、どうして?
完璧な話ができたはずなのに。

「直美さんの話は確かによくできてたんだけど、何度も話をうかがっていると、少しずつ本当の心が見えてきたんですよ。まあそのために何度も同じような話をしていただいたんですけどね。直美さんは基本的にはご自分の性にあまり違和感を感じられていないと思いました。確かに女性の服装をしているのがお好きなようですが、身体にメスを入れることはあまり想定されてませんよね?」
「…」
否定できなかった。
「直美さんが話した学生時代の恋愛話はあまり具体的なことまで突っ込まれた話をされなかったので、本当かどうか怪しいと思いました。おそらく北原のことを好きになったのが、初めて男性を好きになったときじゃないかな?北原のことを好きになったのは、ご自分のことを女性として扱ってくれるからだと思うだけど違うかな?」
「ええ、まあ、そういう面は否定できないかも…」
「でも北原に愛されるために女性になりたいってわけではないようにも思えました。直美さんにとって、ご自分が綺麗になることが一番の関心事ですよね?ある意味、とても女性をリスペクトされている。女性を好きになるとともにご自身も女性のように綺麗になりたいと考えられた。そこにはご自身の性に関する違和感はないように思えました。男のまま女性の美を追求できると信じられているのではないでしょうか?」
そういうふうに言われると、そんな気がする。
そもそも女性の身体になりたいと思ったのは、あの夜のときが初めてだった。
男どうしで愛し合うことに違和感があった。
だから僕が女性の身体になることが必要だと思ったのだ。
そうすれば違和感なく社長とひとつになれると。
「私は女性になれないんですか…」
「手術したとしても、おそらく悪い影響のほうが強く出ると思う。たとえば身体が変わってしまうことによって、直美さんの心が壊れるとか」
確かにそこまでの覚悟があったわけではない。
女性の後ろ姿が好きで、それを自分で体現し始めたことがきっかけにすぎないのだ。
決して身体を女性にしたいわけではない。
確かにその通りだ。
最近の自分が、本当の自分でなかったような気さえした。
「お話をうかがっていて、自分でも意識していなかったことを指摘してもらったような気がします。すごく納得できました。私、今のままで頑張っていこうと思います。本当にありがとうございました」
「北原には僕から話したほうがいいかな?」
「いいえ、私から話します。ありがとうございました」
診察室から出るときに、最後に確認しておきたいことを聞いた。
「もし、やっぱり女性の身体になりたいって思ったら、また診察に来てもいいですか?」
「うん、もちろん。でも結果は同じかもしれないよ。他の医者に行ってもらっても僕はぜんぜん気にしないからね」
「いいえ、ぜひ南先生に診てもらおうと思います」
僕は自然な笑顔で診察室を後にした。
こんなに素直な気持ちでこの部屋を出たのは今日が初めてかもしれない。

僕はすぐに社長に電話した。
直接顔を見て話したかったので、電話では何も伝えなかった。
ただ「会いたい」とだけ伝えた。
社長はすぐに行くと言ってくれた。

社長が僕の部屋に来たのは、それから20分ほど経ったときだった。
社長の顔を見ると、どういうわけか涙が出た。
自分でも訳が分からなかった。
止めようと思ったが、まったく無駄だった。
涙腺が壊れたように涙が流れた。
社長は何も言わず抱きしめてくれた。
僕は南先生から言われた話を社長に話した。
社長は途中口をはさむことなく、話を聞いてくれた。

「やっぱりそうか、何となくそんな気がしてたんだ」
僕の話がすべて終わったときにそう言った。
「だから南に診てもらったんだ。でも君と結婚したかったことは本当だ」
「私が男のままでも?」
「僕がそんなことを気にすると思ってた?」
「だって完全に性転換したほうが好きだって思ってたから」
「実はそこはあんまりこだわってないんだ…。でも胸はちょっとあったほうがいいかな。そのほうがセクシーだろ?」
「それじゃそのことはちょっと考えときます」
そういうと社長は僕の顔を見た。
何か言いたそうだ。
僕は社長の言葉を待った。
「それでさ…、今夜この前の続きをするのはダメかな?」
そんな社長の態度が可愛いと思えた。
そして今日なら応じることができるような気がする。

社長が優しく僕を抱いてくれた。
僕が目を閉じると唇を重ねてきた。
そしてキスをしながら二人でベッドに倒れ込んだ。
倒れ込むと唇から離れて、耳や首筋にキスされた。
キスしながら僕の服を脱がそうとしてきた。
さすがに少し恥ずかしくなった。
「電気を消して」
僕がそう頼むと、社長は部屋の照明を消してくれた。
そして自分の服を脱いで、ボクサーショーツ1枚だけになった。
再び僕に覆い被さってきた。
社長が服を脱がそうとしてきたので、身体をひねって脱がせやすくなるように協力した。
ブラジャーとガードルだけになった。
社長がブラジャーをずらして、僕の乳首を舐めてきた。
「…ぁ…ぁん………」
気持ちよくて、思わず声が出た。
社長は執拗に乳首を舐めたり、甘噛みしたりしてきた。
そして下半身に手を伸ばし、ガードルの上から僕のペニスを握ってきた。
僕は思わず身を固くした。
「大丈夫だよ。もっと力を抜いて」
社長の優しい声が聞こえたかと思うと、手がガードルの中に入ってきて、ペニスを直接触られた。
僕はさらに緊張した。
社長は指でペニスの先に触れてきた。
気持ちいい…。
社長が僕のガードルを剥ぎ取った。
そして僕のペニスを咥えてくれた。
驚いたが、嫌悪感はなかった。
すごく気持ちいい…。
部屋が暗くてお互いが見えないせいだ。
素直になれる。
それでも指がアナルに触れてきたときは緊張した。
アナルに何か冷たいものを塗られた。
きっとローションか何かだろう。
いよいよ社長にものを迎え入れるのだ。

彼を受け入れたことで、僕の気持ちに変化が表れた。
少しでも長くいたいと思ったし、顔を見れない時間が長く感じるようになった。
そんな変化を他の女性社員は見逃さなかった。
「塚本さん、最近綺麗になったわね」
「社長と何かあったでしょ?」
そんなことを多くの女性から言われた(男性からはまったくなかった)。
そんなとき僕は特に肯定も否定もせず笑顔を返すことにしていた。
何を言っても女性は自分の感じたことを信じるものだ。
そしてそれは当たっているのだから、僕が何も言う必要はない。

一度抱かれてからは、僕たちはデートの後はホテルに行くようになった。
そしてその場所がホテルではなく、彼の家になるのにそれほどの時間はかからなかった。
そうなると、そのまま彼とともに一夜を過ごす。
すなわち彼の家から出勤するようになる日が多くなった。
「一緒に暮らさないか?」
彼のそんな言葉を、何の抵抗もなく受け入れた。
こうして同棲生活が始まったのだ。

同棲し出すと、自分の男の部分が本当に気になった。
そんなことが彼に気づかれると、二人の関係は終わってしまうと思っていた。
だから毎晩のようにお風呂でムダ毛を処理した。
それでも朝になれば髭がうっすらと目立つようになる。
絶対に彼より早く起きて、隠れて浴室で髭を剃った。
そんなことを長く続けるのは精神的にかなりきつかった。

同棲して1ヶ月になろうとするある日、僕は失敗してしまった。
僕が起きたのは彼がすでに起きた後だったのだ。
しまった。
さすがに起きたときは焦った。
顎に触れると、少しザラザラしたものを感じた。
「おはよう。疲れてるみたいだから、もう少し寝てていいよ。会社には少し遅れてきてくれればいいから」
彼のそんな優しい一言に、緊張してカチカチになった僕の気持ちが崩壊した。
僕の両目からは信じられないくらいの涙が流れ出したのだ。
「ど…どうした?何か悪いこと言ったか?」
僕は言葉が出ず、首を横に振るだけだった。
彼は黙って僕は抱きしめてくれた。
僕は彼の腕の中で全身から水分がなくなるかというほど泣いた。
「ごめんなさい」
ようやく話せるようになると自分がこれまで早起きしてやってきたことを話した。
「そうだったんだ。朝早くから食事の支度を頑張ってくれてるくらいしか考えてなかった」
「…ごめんなさい」
「直美が謝ることじゃない。僕はそんなことを気にしないことをちゃんと伝えておけばよかったんだ」
「でも…」
「そんなに気になるんだったら、永久脱毛でもしてもらえばいい」
「それも考えたんだけど…」
「けど?」
「女性ホルモンを摂るのがいいのかなって…」
「…そうか。実は直美が性同一性障害じゃないって聞いたあとに、南のやつから連絡があったんだ。直美は性同一性障害とは言えないけど、そのうち女性ホルモンとか摂りたくなるかもしれないって。でも素人判断で女性ホルモンを摂るのは危険だから、どうしてもってことになったら、必ず自分のところに行くように言ってくれって」
「…そうだったんだ……」
「女性ホルモンってやめれば、元通りになるって思ってるやつが多いけど、決してそうじゃないって。だから、本当に覚悟ができたんじゃなければ、絶対にやめた方がいいって君に言ってくれとも言われた」
「うん、ちょっと考えてみるわ。ありがとう」
「絶対にお前が無理強いするんじゃないぞとも言われた」
そう言って彼は笑った。

結局僕は女性ホルモンを打ってもらうことにした。
彼の前では少しでも女性でいたいから。
南先生からは彼以上に厳しいことを言われた。
それでも僕は自分の意思を変えることはなかった。
「結局こうなると思ってたよ」
最後は南先生もこう言って女性ホルモンを処方してくれた。

女性ホルモンを摂るようになってから、自分の肌が変わってくるのが実感できた。
それは本当に喜びだった。
こんなことだったら、もっと早く打ってもらえばよかったとすら思った。
そして胸にわずかではあるが隆起が生まれたときは喜びとともに恥ずかしさを感じた。
自分にできた膨らみにブラジャーをしたときは自分が女性になれたような気さえした。
そしてそこに彼の手が重なったときは気も狂わんばかりに感じた。

女性ホルモンを打つことで、筋肉が落ち、脂肪ができてくると、僕は自らの体型維持に最大の注意を払うようになった。
特に脚。
最高に後ろ姿がかっこいい女性になりたい。
智美さんのように。
そして昔から自分が理想としていた女性のように。

そんな努力の甲斐あって、かなりかっこいいふくらはぎになったと思う。
キュッと絞られた足首には色気すらあると思っている。
さすがにそれは贔屓目すぎるのかもしれないが。

女性ホルモンが身体の隅々に影響を及ぼすと、僕は自分のことを、より女性として認識するようになった。
自分の後ろ姿に男性陣の強い視線を感じると、本当に楽しくなってくる。

僕は社長の目を盗んで、他の男性と食事くらいのデートをすることもあった。
決して浮気をすることが目的ではない。
食事をしていると、目の前の男が僕を値踏みしているのだ。
そんな様子を見ることで、自分が魅力的な女性に見えているんだということを実感できる。
その感覚が嬉しかったのだ。
そんなことをしていると、僕は確実に魅力的な女性に近づいている。
そう実感できるのだ。

それに彼だって、時々他の誰かと自分の欲求を発散していた。
一緒に暮らしていれば、そんなことにはすぐに気がつく。
それでも僕は何も言わなかった。
彼が僕を愛してくれているのは間違いないと思っているからだ。


彼に愛されている自信はあるのだが、性別適合手術はまだ決心できていない。
彼はまったくそんな話はしない。
彼とのセックスの前に、あの部分を綺麗にしなくちゃいけない。
綺麗にしなくちゃいけないということは、綺麗でないところに彼を迎えているということだ。
そのことを思うと、いつかは手術を受けた方がいいんだろうなくらいは考える。
でも慌てることはない。
彼と僕は強い愛で結ばれているのだから。


単なるフェチだったはずが、自分の身体をここまで変えることになってしまった。
今から思うと僕のフェチは自分への願望だったように思う。
すなわち僕は自分の願望を体現できたのだ。

今日もお気に入りのフレアスカートを穿いて街を歩く。
ハイヒールの音を響かせながら。
そして男たちの視線を楽しみながら。


《完》

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